鑑定事例

埼玉県狭山市で起きた事件

※音が出るのでご注意ください

【1.狭山事件の発生】

狭山事件とは、埼玉県狭山市で起きた高校1年の女性徒を襲った誘拐殺人事件です。

1963(昭和38)年5月1日、この日の狭山地方は、午後2時ごろから小雨が降ったりやんだりして、午後4時半ごろから本降りの雨になっていました。
被害者の女生徒は、夕方頃に学校を出て、自転車で帰路についたが、夕方6時を過ぎても彼女が帰ってこなかったため、心配した家族は、学校や駅などを探し回りましたが、彼女はどこにもいませんでした。

捜索を中断して午後7時半ごろ家族で食事をとっていました。
すると、玄関入り口のガラス戸に、白い封筒がはさみ込まれているのに気がつきました。それは、午後7時40分ごろでした。

兄さんが封を開けてみると、中から彼女の身分証明書と金を要求する脅迫状が出てきたので、父と兄は、すぐに娘が誘拐されたと重い、直ちに駐在所に届け出ました。

【2.犯人取り逃がし】

脅迫状には、「子供の命がほ知かたら五月2日の夜12時に、金二十万円女の人がもツてさのヤの門のところにいろ。」(原文ママ抜粋)
などと書かれていました。
犯人が身代金の受け渡し場所として指定した「さのヤ」とは、正式には「佐野屋」と書き、被害者方の西方1km余りのところにある、酒などを扱う雑貨店であった。

5月2日の深夜、11時50分過ぎ、被害者のお姉さんが、身代金に見せかけた包みを持って佐野屋の前に立ち、その周りを警察官40人ほどが息をひそめて張り込んでいた。

すると、犯人がお姉さんに声をかけてきましたが、警察官の姿を察知した犯人は
暗闇に消えてしまいました。
張り込んでいた警察官は、笛を吹いて一斉にあたりを捜索しましたが、犯人を取り逃がしてしまいました。

※ 写真はイメージです。

【3.世論の批判】

その数日後、近所の雑木林で彼女は無残な姿で発見されました。犯人を取り逃がした失態に加えて、彼女が無残な姿で発見されたことから、警察に対する世論の批判が沸騰し、国会で問題視されるまでになりました。

国家公安委員長は、異例の記者会見を行い、「犯人は知能程度が低く、土地の事情に詳しい者であり、犯人逮捕はできる。」(5月5日埼玉新聞)と断定的な内容を発表してします。

また、国家公安委員長は参議院本会議で事件の捜査報告を迫られ、同本会議までに、犯人を捕まえよ、と命じられ(5月7日埼玉新聞)、捜査本部もあせりの色を隠せませんでした。

※ 写真はイメージです。

【4.必死の捜査活動と石川さんの逮捕】

特別捜査本部は、機動隊、消防隊等総勢165人にもおよび、8日まで連日の聞き込み、遺留品、所持品捜索を行うなど徹底した捜査を展開しました。

世論の非難が警察へ集中し、この事件の解決は、警察の威信と面目をかけたものとなりました。
しかし、必死の捜査にもかかわらず、事件は難航していったのです。

そのころ、近くに住む石川さんが容疑者として浮上しました。
それは、事件当日のアリバイがないうえに、幼い頃に学校へ通っていなかったので、文章を書けず、犯人像に一致したためでした。
そして、5月23日の早朝、石川さんは、寒さをしのぐため同僚の作業服を窃盗したことで逮捕されたのです。

窃盗の取調べが終わると、女子高生殺人事件の取調べが始まりました。警察は、2回にわたるポリグラフ検査(うそ発見器)を使い、ニセ弁護士も登場させて殺しの自白を強要させた
とのことでした。
しかし、石川さんは、窃盗の事実はすぐに認めたものの、女子高生殺しは、「やっていない」と言い続けました。

そして、拘留期限が終わりに近づいた6月17日、捜査機関は石川さんを一度保釈して狭山署を出る直前に別の容疑で再逮捕するという手段をとりました。
更に、再逮捕してからは、狭山署から川越署分室の特設留置所に移し、弁護人など外部の人との接触を一切断った上で、再度、取り調べが行われました。

そんな中、幹部の取調べ警視が「女子高生殺しを認めれば、10年で出してやる。男の約束だ」と自白を迫りました。この言葉で石川さんは、「自分がやりました」と自白をしたのです。
そして、石川さんの自宅を家宅捜索したところ、3回目にして被害者が持っていた万年筆が発見され、動かぬ物的証拠となりました。

※ 写真はイメージです。

【5.裁判の経過】

ついに、裁判が始りました。第一審の浦和地裁では、罪をそのまま認めていたので、わずか半年の審理で死刑判決が下されました。

石川さんは、死刑判決の直後、拘置所で雑居房内の同居者から「この事件は国民注視の事件で、犯人なら死刑だから、すぐに弁護士に話して控訴したほうがいい」と言われ、警察が「10年で出してやる」と言ったことに疑いを持ち始めてすぐに東京高裁に控訴しました。

第二審の第一回公判で、はじめて犯行を否認して無実を訴えました。
「私は、女生徒を殺していません。このことは、弁護士さんにも話していません。」と証言して容認事件から否認事件に変わりました。

その後、東京高等裁判所は、第一審の死刑を破棄して無期懲役の判決を言い渡しました。
弁護団は、無罪判決を求めていたので、無期懲役を不服として、直ちに、最高裁に上告したが、上告を棄却され、事件から14年後に無期懲役が確定してしまいました。
この日を境に、石川さんと狭山事件弁護団は、長い再審請求の戦いに入っていきました。

※ 写真はイメージです。

【6.再審請求】

無期懲役が確定して石川さんと狭山弁護団は、裁判所に再審請求を申請しました。
再審請求とは、確定した判決は間違っているから再度裁判をやり直してください、と言うものです。

1回目の再審請求は、判決が確定してから直ちに申請をしましたが、8年後の1985年に棄却されてしまいました。

再度、弁護団は周到な準備をしてから、翌年に2回目の再審請求を申し立てました。その最中、1994年石川さんは、仮釈放となり、実に31年7ヶ月ぶりに狭山に戻り、精力的に再審の活動をするようになっていきました。

この2回目再審請求の時に当研究所に鑑定の依頼があり、指紋に関する鑑定書を提出しましたが、東京高等裁判所はまたも棄却しました。
その後、弁護団は、東京高等裁判所に不服として、直ちに東京高裁第五刑事部へ、異議申し立てをしましたが、結果は変わりませんでした。

そこで、弁護団は、2006(平成18)年5月23日3回目の再審請求を申し立てました。そうしたところ、2009年6月25日に三者協議の開催が決定しました。
三者協議とは、裁判官、検察官、弁護士が再審をするかどうかの話し合いを進めることです。
その年の9月10日に第1回の三者協議が開催されて以来、現在も行われています。

※ 写真はイメージです。

【7.鑑定依頼】

狭山弁護団から当研究所にはじめて依頼があったのは平成10年でした。第1鑑定から始まり、現在では第7鑑定まで作成しました。
そのどれもが複雑な内容になり、専門的な知識がないと理解できないので、ここでは、皆様にも分かりやすい第6鑑定に絞ってご紹介をしてまいります。
この第6鑑定とは、万年筆に関する鑑定です。

まず始めに、本件で万年筆はどのような証拠となったかというと、事件当日に石川さんが偶然に通りかかった帰宅途中の被害者を誘拐し、万年筆を奪って、封筒に「中田江さく」と
宛名を書きました。
「中田江さく」とは、被害者の父親の名前であり、被害者から名前を聞き出して、事件当日に書き込んだとされています。

その後、石川さんは万年筆を自宅に隠しておき、逮捕されてから、自宅を警察が捜索して、発見されています。
なので、この万年筆は被害者と石川さんを結びつける重要な証拠となりました。

次に、弁護団はこの万年筆は本当に被害者から奪ったものかどうかを調査したところ、重大な矛盾に気が付きました。事件当日に被害者は学校で日記を書いています。
その日記は問題の万年筆が使われており、インクの色はライトブルーでした。それに対して、封筒に書いてある「中田江さく」はブルーブラックでした。
つまり、インクの色が違うので、被害者が持っていた万年筆で「中田江さく」は書かれていないという事になり、石川さんが被害者から万年筆を奪った事も疑わしくなってきます。

早速、弁護団は、この事実を書類にまとめて、裁判所に提出しました。
すると裁判所からこのような答えが返ってきました。「被害者が学校帰りに郵便局に立ち寄っていた事実があり、そこにはブルーブラックインクが備え付けられていて、誰でも自由に使うことができ、ここで被害者がブルーブラックインクを補充した可能性がないわけではないので、インクの色合いが異なっていても犯人ではないとは言えない」と。

そこで、弁護団から当研究所にインクが補充されたかどうかを鑑定してほしいと依頼がありました。
また、弁護団は、本件の万年筆と同型品を探し出し、当研究所に提供してくれました。

鑑定をすると、インクを補充した場合は、文字の線をかすれることなく書けるという事が判明しました。
しかし、実際の「中田江さく」はかすれているので、やはりインクが補充されていない別の万年筆で書かれたことが明らかとなりました。

※ 写真はイメージです。

【8.裁判所の見解】

現在、狭山事件は3回目の再審請求を審議中です。
当研究所が行った万年筆の鑑定はこの3回目の再審請求に含まれていますので、この鑑定に対する判断というのは、まだ出ておりません。

また、現在は裁判官・検察官・弁護士で三者協議が行われている最中であり、事件発生から50年が経過した今も狭山事件は動いております。

※ 写真はイメージです。